シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

或阿呆の一生 ①

johnfante2008-09-03

或阿呆の一生 (岩波文芸書初版本復刻シリーズ)

或阿呆の一生 (岩波文芸書初版本復刻シリーズ)

用意された綻び


芥川龍之介の「或阿呆の一生」は作中で自叙伝という言葉が使われていることもあり、多くの人がそのように読んでいるが、一箇所、作者によって用意された「綻び」がある。
四十九節。「彼は『或阿呆の一生』を書き上げた後、偶然古道具屋の店先に剥製の白鳥があるのを見つけた」という一文。
実際の小説が終わる前に、「或阿呆の一生」という入れ子構造になった作中小説が書き終えられてしまう。
三人称の「彼」が自叙伝を書いている、もう一つ上のメタレベルに本当の作者が潜んでいることを示唆している。

フィクションとしての自己


その死の直前まで「河童」「玄鶴山房」といった、見事な虚構を構築していた芥川の自伝小説というものに或る疑いを持たざるを得ない。
芥川が「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」といった小説を書き出したのは、自然主義の作家たちから「もっと裸になれ」「自己を暴き出せ」と迫られたからだといわれる。
その裏には漱石に激賞され、二十代で毎日新聞の客員という地位についた芥川に対する妬みもあったらしい。


芥川龍之介の晩年を彩る自伝的要素の強い作品群は、本人の告白であるというよりは、芥川がつくり出した「フィクションとしての自分」なのではないか。
精神を病み、胃弱で、睡眠薬を噛み、自殺への願望をつぶやくキャラクターをつくり、それをフィクションとしての自叙伝のなかで自在に動かしてみせたのではないか。
キャラクターといっても、それは決して不真面目なものではなく、彼はそれを使ってしか自殺衝動について語れなかったし、対社会的なパブリック・イメージを提出できなかった。
それが彼なりの読者や文壇の人間に対する責任の取り方だったのではないか。