シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

可愛い女 

johnfante2008-08-29

可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)

可愛い女(ひと)・犬を連れた奥さん 他一編 (岩波文庫)

チェーホフの音


「可愛い女」という小説には、さまざまな音があふれている。
晩年のチェーホフにとって音は特別な意味を持っていたようだ。
この小説のなかで、ごろ、ごろ、ごろと「はげしく木を叩く音」が登場する。これによって、主人公の女性・オーレンカは子どもを失うのではないかと恐怖する。
チェーホフはオーレンカの感情や内面を記述する代わりに、彼女の不安をこの音に託している。オーレンカの内面で問いかけが起きるとき、音が表出されて外で鳴るのだ。


チェーホフと島


「島とは陸地の一部にして、四面水にて囲まれたるをいう」。
子どもが勉強の復習をしているときの言葉が、オーレンカが口にする最初の自分の意見となる。


「可愛い女」が書かれる九年前、チェーホフサハリン島へ行った。
殺人犯、強盗、政治犯が送られる流刑地を取材してまわったのだ。
映画監督のソクーロフは『ストーン/クリミアの亡霊』という映画で、チェーホフの別荘を舞台に彼の亡霊を撮った。
ソクーロフは「人々は皆、島に住んでいる。人が住むところは、街であろうが村であろうが島だ。島は地理学的に特定されるのではなく、感覚的に特定される空間である」と言っている。


ソクーロフは、孤島として互いに離れていながら、海底でつながる「島」を人間の生の隠喩としているようだ。
たしかに、日本の古い言葉を残す沖縄では、村や集落のことを「シマ」と言う。
また、現代でも縄張りを隠語でシマと呼ぶ。
原義的には、シマという言葉は地形的な「島」のことではなく、人々が集まって生活する「共同体」を指し、自分の心根が帰属している「世界」のことを指しているのだ。
「可愛い女」という小説では、オーレンカは「島とは陸地の一部にして…」と口にして、長年の沈黙と空虚を破ることになる。
つねに誰かに精神的に従属してきた彼女が、初めて「世界」とそこに生きる自分を意識するようになる瞬間に、媒介となる観念が「島」であるところがおもしろい。 


呼びかけの言葉


「今日は、可愛いオリガ・セミョーノヴナ! ごきげんはいかが、可愛い女?」という一節からもわかるが、「可愛い女」は行き会う人々がオーレンカに呼びかけるときの呼称である。
「可愛い女」というタイトルは、この箇所からきているようだ。
原題の「ドゥーシェチカ」は、主に女性に対して使われる「やさしい呼びかけ」の言葉だという。
英訳のタイトルでは「ダーリン(The Daring)」となっている。


チェーホフ晩年の「いいなずけ」「犬を連れた奥さん」「ワーニャ叔父さん」といった小説は等しく、題名に呼称や呼びかけの言葉が使われている。
一見、「可愛い女」では、自分の考えを持たない「がらんどう」な女を、チェーホフが冷たく突き放してユーモラスに描いているように見える。
しかし、その実、チェーホフは彼女にやさしく呼びかけるタイトルを使うことで、オーレンカという無意味で空虚に見える存在を、丸ごと抱きしめるようにして肯定しているのであろう。