シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

死者たち ②

johnfante2008-10-26

ザ・デッド/「ダブリン市民」より [DVD]

ザ・デッド/「ダブリン市民」より [DVD]


『ダブリン市民』所収「死者たち」を映画化した『ザ・デッド』
右写真は、妻ノーラ・ジョイス(左)とジェイムズ・ジョイス(中央)


ザ・デッド


『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』を監督したジョン・ヒューストンアイルランド系で(ちなみにジョン・フォードアイルランド系)、実際にアイルランドに家を構えたこともある。
アイルランド映画に出資したりと様々な貢献をした。
『ザ・デッド』の脚本は息子のトニー・ヒューストン、主演のグレタ・コンロイ役は長女のアンジェリカ・ヒューストン。ゲイブリエル・コンロイ役にはアイルランド人のドナルド・マッキャンを起用し、他の役者もアイルランド系でかためた。
ほぼ原作に忠実に描いている。



写真はジョン・ヒューストン


原作では三人称の「he」を使い「I」をまったく使わず、ゲイブリエルの内的独白を自由間接話法で挿入している。
映画『ザ・デッド』で脚本を書いたトニー・ヒューストンは、ラストにいたるまでゲイブリエルの独白を廃して会話劇に仕立て上げ、最後の長い独白だけを残すことで効果をあげている。
もう一つ映画で目を引くところがある。
ゲイブリエルはこの独白のなかで、年老いたジューリア叔母はいつかは亡くなり、自分が黒い喪服を着てパーティが行われた同じ客間に座っている姿を想像する。
映画はこの場面にフラッシュバックを用い、ジューリア叔母が死の床にいる映像をはっきりと入れている。


死者たち


「死者たち」は一九〇四年一月六日の公現の祝日が舞台になっている。
ユリシーズ』の十七章を参照すると、その半年後の一九〇四年六月十六日(ユリシーズの設定日)までに、ジューリアおばは死んでいる。
ユリシーズの主人公の一人スティーヴン・ディーダラスの名づけ親がケイト・モーカンで、その姉の臨終を彼が過去形で思い出すのだ。
ちなみに一九〇四年の六月十日、ジョイスとノーラは出会い、六月十六日(木曜日)に初デートをしている。
この日は『ユリシーズ』の一日と設定されて不滅となり、その主人公のレオポルド・ブルームの名から、ブルームズ・デイとしてアイルランドでは祝われている。



映画『ザ・デッド』のゲイブリエルによるスピーチの場景


「死者たち」の主人公のゲイブリエルが行うスピーチには「あの去りにし偉人たちの思い出」「わびしくも今夜の席に見当たらぬ人々の顔」という言葉がある。
年に一回、一月六日の公現祭(エピファニー、イエスが人々の前で神性を現したことを記念)という親戚や家族が集まる席では、段々と人が亡くなってメンバーが減っていき、死者を意識することが多い。
ゲイブリエルは「人生の道にはこういう悲しい思い出があまたまき散らされています。つねにこうした思い出にとらわれているなら、生者のなかで雄々しく仕事を続けてゆく気力を見いだすことはできないでしょう」といい、湿っぽくなりそうな雰囲気を変えようとする。


つまり、死者たちとはマイケル・ヒューリーによって喚起された、過去に亡くなった家族や親戚や友人たちのことである。
そして、ゲイブリエルはそれを妻の故郷であるゴールウェイや、当時寒々とした暗い未開地で、ケルト式十字架(一八六〇年頃から盛んになる)の墓や死への道というイメージがあったアイルランドの西方へ結びつけているのだ。


神話的対応


マイケル・フューリーの実在のモデルはマイケル・ボドキン。
彼はジョイスの妻ノーラに、学生のときに求婚したが結核で亡くなった。マイケルはヘブライ語の「誰が神に似ているか」が原義で、天使長の一人ミカエルのことである。
『「ダブリン市民」と聖書のイメージ』(辻弘子著)によれば、旧約聖書ではミカエルは水を象徴し「雪の王子」と呼ばれ、大天使ガブリエルは対照的に火の天使である。


『ダブリン市民』と聖書のイメージ


「死者たち」では、妻のグレタはマイケル・フューリーが夜の雨と暗さのなかに立っていたと話す。
反対に叔母たちと別れ、プラットフォームに立っているときにゲイブリエルは妻との愛の思い出に浸っているが、グレタは炉で壜をつくっている男に「その火は熱いの?」とアイロニックな言葉を投げかける。


ゲイブリエルの最後のエピファニー体験は、生者も死者もすべてを覆いつくす雪の降る夜、冬の墓地の情景ではじまる。
新約聖書では、ミカエルは最後の審判に立ち合う天使であり、ガブリエルは救世主の誕生のお告げに立ち合う。
ゲイブリエルの心は外の雪と解け合い、正反対の立場の者が、つまり生者の世界と死者の世界がひとつになる。
「光と生命の顕現を祝う公現祭が逆の姿で物語られている」のだ。
それは生と死がさしだすすべてのものをもの悲しく受容するシーンとなっている。