シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

「Corpus」 ベケット論

johnfante2009-03-11

Corpus no.6―身体表現批評 特集:日本のパフォーマンス

Corpus no.6―身体表現批評 特集:日本のパフォーマンス


上の「Corpus 身体表現批評」の最新号に、ベケット唯一の映画『フィルム』とバスター・キートンの身体について書きました。

バスター・キートン


一九四九年にバスター・キートンは『愛すべきイカサマ』(Lovable Cheat)という映画に脇役で出ています。
この映画はバルザックの戯曲『相場師』(Mercadet Le Falseur)を映画化したものです。
キートンはそのなかで、待っていても現れないゴドー(Godot)というパートナーを待っている男の役を演じました。作家のサミュエル・ベケット(1906-1989)はキートンより十歳年下ですが、ダブリンの学生時代には映画館に通い続け、『キートンの探偵学入門』『海底王キートン』『キートン将軍』などを熱心に見ていました。
ベケットが5年近く書きついだ『ゴドーを待ちながら』を発表したのは、一九五二年のことでした。


私たちには、まだ一つの謎が残されています。ベケットキートン主演で撮った『フィルム』という短い映画のことです。
ベケットの目はキートン映画のなかに何を観ていて、彼はそこから何を受け継いだのでしょう。
「フィルム」では、キートンが演じる「O」という人物が、自分を見る他者(人間、犬、猫、神の絵)をすべて消し、写真に残った過去の自分すらも破り捨てて抹消したはずが、最後に自分を追い続けていたカメラの視線に気づかされます。(大きな神の顔写真は、バグダッド美術館が所蔵しているシュメール人のアブー神の顔の絵だということです)。
そして、そのカメラの目が自分自身、つまり自分の知覚であることに気づかされます。



ベケット唯一の映画「フィルム」


ベケットの映画


おそらくベケットキートンの身体や身振りを借りて、沈黙のある形を実現しようとしたのでしょう。
スーザン・ソンタグ(1933-2004 批評家、映画作家、小説家)の「沈黙の美学」(『ラディカルな意志のスタイル』)のなかに、こんな一節があります。


カフカベケットの物語が謎めいて見えるのは、それらの物語に強力な象徴的・寓意的意味を持たせるように読者に誘いかけるようでいながら、同時に、そのような意味の転化を嫌悪させるからである。しかし、物語を検討してみても、それが文字通り意味している以上のことは明かしてくれるわけではない。彼らの言葉の持つ力は、まさに意味がそれほどまでに赤裸であるという事実から来る。このような裸形性はしばしば人に一種の不安を与える。ちょうど見慣れたものが本来の場所になく、いつも演じている役割をそれが演じていないときに生じる不安のように」


つまり、映画であれば私たちが映画だと思いこんでいるストーリーの起伏や、登場人物の人間ドラマや感情の起伏を求めます。
ですが、ベケットの『フィルム』のような作品になると、それは叙事的演劇のように多くのものが排除されていきます。余計なものが何もないので、これは何を意味しているだとか、これは何の隠喩だろうとか言われることを拒否していて、映画はそれがあるがままのイメージしか私たち観客にもたらしません。
あらゆる可能性を尽くすことによって、可能性とはまったく別の次元に移ってしまうのです。


…というような感じです。詳細はぜひ雑誌の方で!


Corpus(コルプス)―身体表現批評〈no.4〉特集 土方巽


Corpus(コルプス)―身体表現批評〈no.1〉特集 大野一雄