シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

『病牀六尺』 ②

johnfante2009-04-16


写真は「子規庵」(東京都台東区根岸2−5−11)

リアリズム


もう一つには、子規の俳句や文章におけるリアリズムの問題がある。
百十節(171頁)に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という子規の有名な俳句がある。
イメージの喚起力が強くてわかりやすい。事実をなぞっているのに、おかしみをたたえている。
この句一つをとっても、子規における絵画と写生文の関係が見てとれる。


八十六節(140頁)で子規は、「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る」と書いている。
子規は草花帖(そうかちょう)に蝦夷菊、忘れ草、石竹といった草花をスケッチするのだが、あまりに苦しいのでモルヒネの服用時間を早めて写生を続ける。
ケシという植物の種からアヘンが採取されるが、そこからさらに抽出したものがモルヒネである(モルヒネは精製するとヘロインになる)。
モルヒネには劇的な鎮痛作用があり、副作用として便秘や眠気があるが、精神錯乱や幻覚などは少ない。
子規は痛みから解放されて、すっきりした気分で画帳にむかったのだろう。


写生の宇宙


次の八十七節には、その様子が「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする」とある。
子規がいう写生ということは、絵を描き、俳句をつくることで小宇宙の秘密に接近していくような飛躍的な何かである。
近代文学におけるリアリズムの形成に一役買った、云々と教科書的に考えてはいけないのだ。
四十五節(76頁)では、写生について「画の上にも詩歌の上にも」同じことが言えるとしている。
子規のいう写生は科学の発展に支えられたヨーロッパ的なリアリズムとは少し違う。



人間の想像力(理想)は写生よりも浅薄であり、写生は自然をうつすのであるから、自然が変化する分だけ写生文も写生画も変化が多く趣が深いという。
子規のリアリズムとはむしろ東洋に古くからある考え方に近いもので、与えられた現実をそのまま認めるということにある。
それは、この本の書き出し「病床六尺、これが我世界である」という一文にもよくあらわれている。
つまり、物事をありのままに書き写すことを通して、介護の必要な病人でも、内面における広々とした自由自在さにたどり着ける、ということを言っているのではないだろうか。