リトアニア、そして旧ソ連邦の崩壊 �

johnfante2009-06-10

フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画 (フォト・リーヴル)


ジョナス・メカスの新作『リトアニア、そして旧ソ連の崩壊』を「メカス日本日記の会」の方々と観ました。
原題は「Lithuania and the Collapse of the USSR」(2008)、4時間46分の大作です。


自由の回復


まずは、ジョナス・メカス本人の言葉から訳出してみよう。

このビデオ映画は、ソ連が崩壊する期間に、テレビのニュースで放送されていた映像をソニーのカメラで撮影したフッテージで構成されている。だから背景には、家庭での物音が入っている。
これはテレビのニュースキャスターたちの手による、あの重要な期間に何が起こり、どのように起こったのかについての記憶のカプセルである。
まるで不合理ですらあるような、確固たる意志を持った一人の男(ヴィータウタス・ランズベルギス)によって、国家の運命ががらりと変化する、ギリシャの古典劇としてこれを見ることもできよう。
一つの小さな国が大いなる力によって支えられ、不可能に対して自由を回復すると決心したのである。
ジョナス・メカス


リトアニアの若き詩人であったジョナス・メカスが、どのようにリトアニア移民としてアメリカへ渡ってきたのか。
それは上の『フローズン・フィルム・フレームズ』という著書におさめられた「私には行くところがなかった―亡命までの日々」(木下哲夫訳)に詳しい。
それによれば、ジョナス・メカスは1943年から44年にかけて、リトアニアがドイツの占領下に置かれていた時代に、地下新聞の発行など様々な反ナチス運動に関わっていた。
ところが地下運動で使っていたタイプライターがナチスの手に渡り、兄たちが逮捕された。
父親は最初はドイツ人に、それから次にやってきたソ連軍に尋問されて、結局は殺されてしまった。
ジョナスとアドルファスの兄弟はウィーンの知人を頼って、国外亡命を決心するが、その後5年間をドイツの強制収容所と難民キャンプで過ごすことになってしまう。



映画の特徴


ジョナス・メカス国粋主義者たちのパルチザンに参加することを諦めて、ドイツからアメリカへと流浪の亡命生活を送る道を選んだ。
とはいえ、後に共産主義者たちの手に落ちたリトアニアへの帰郷と、祖国の独立を願う気持ちは誰にも負けないくらい強かったはずである。
映画『リトアニアへの旅の追憶』(1972)が祖国に残した家族や土地への帰還を描いた作品であるならば、『リトアニア、そして旧ソ連の崩壊』は正面からリトアニアという国家の独立のプロセスを丸ごと記録した映画である。


そうはいっても、日記映画の生みだしたジョナス・メカスの映画であるから、一筋縄ではいかない。
映画は89年のベルリンの壁の崩壊、そして90年1月のゴルバチョフによるリトアニア訪問の時期からおさめている。
この時代であれば、すでにビデオデッキは多くの家庭に普及していたはずなのだが、ジョナス・メカスはわざと手持ちのビデオカメラでテレビ画面を撮影している。
それはテレビの枠が常に入っていることからもわかるし、メカス自身が書いているように、ときおり妻や子供たちの声やメカス自身が漏らす感嘆の声などが一緒に記録されている。
ソ連の崩壊とリトアニアの独立を記録した映画ではあるが、あくまでも家庭のテレビ画面の前に座っていたという「個」の視点であるところが、さすがはジョナス・メカスだといえる。