シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

月のひつじ ①

johnfante2009-09-24



映画『月のひつじ』で扱われた、アポロ11号の月面歩行テレビ中継の裏にあったストーリーを詳しく追ってみます。


アポロ11号計画


1969年7月21日、月曜日。12時56分(以下、時間はオーストラリア東海岸時間)に、人類にとっての大きな一歩が踏み出された。
ニール・アームストロングエドウィン・オルドリン、マイケル・コリンズの3人の宇宙飛行士が乗り込んだアポロ11号のミッションは、人類初の月面歩行をテレビのライブ中継で全世界にむけて流すことだった。


二一ル・アームストロングによる人類初の月面への第一歩と、彼の残した「これは人間の小さな1歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」という言葉は、世界中の50ヶ国のおよそ6億人もの人々が、中継によって見守った忘れられない場面である。

しかし、この歴史的瞬間のテレビ映像がいかにして私たちのもとに届いたかは、あまり知られていない。その地上でのミッションにあたったのは、南半球のオーストラリアの片田舎にある「Dish」(皿)と呼ばれる巨大なアンテナだった。
そして、そこで命を張った勇敢な男たちが地上にもいなければ、実現しなかったことかもしれないのだ。


パークス天文台


1969年7月16日、水曜日。
アポロ11号は、ケネディ宇宙センターから打ち上げられた。月時代の幕開けだった。アポロ11号は地球を1周半周回した後、司令船コロンビアがサターンVロケットから切り離されて逆向きに回転し、アダプタに格納されている月着陸船とのドッキングを行なった。
その成り行きを、固唾を飲んで見守っている男たちがいた。所長のジョン・ボルトン(John Bolton)と、パークス天文台の所員たちだった。


オーストラリアのニューサウスウェールズ州にあるパークスという町は、1万人足らずの小さな町だった。羊の数の方が人口より多いといわれる典型的な牧羊地帯である。
1961年に町長のボブ・マッキンタイアー(Bob McIntyre)の強引な誘致によって、パークス天文台はまさに羊たちを放牧する草原のなかに開設された。このことにより、町長のボブは「そんなものは必要ない」と批判にさらされた。
シドニーから西に400キロ。パークスは天文台を建設するのに最適の場所であった。一つには天候が一年を通じて穏やかなことが挙げられる。
これは口径が64メートル、アンテナの皿の全重量が1000トンにもおよぶ、南半球最大のパラボラアンテナを建てるためには好条件だった。もう一つには、電波望遠鏡は光学望遠鏡では観測できない電波で観測するため、周囲に他の電波源があまりない場所が好ましかった。



月のひつじ』予告編


アンテナの支柱部分の2階に制御室はあった。パークスの空に月が出たところで、制御室にいた技師のタフィー・ボウエン(Taffy Bowen)は、打ち上げられたコロンビア号からの電波のトラッキング(追跡)を開始し、その受信に成功した。
「やりましたね」と操作技師のロバート・テイラー(Robert Taylor)が言った。
「いよいよだな」とジョン・ボルトンは答えた。
 しかし、ジョンの心なかには得もいわれぬ不安があった。
いくつかの条件が重なって、人類が初めて月面歩行をするライブ映像を受信するという歴史的な仕事を、この片田舎のパークス天文台の所員たち(10数名)が受け持つことになったからだ。
ジョン・ボルトンの不安には、それなりの理由があった。


それはアポロ11号打ち上げの2週間前にさかのぼる。
所員のリチャード・ホール(Richard Holl)がテストのために、TVシグナルを変換する走査コンバーター(月面から10フレームのナローバンドで送られてくる映像を30フレームのNTSC方式に変換する機械)のスイッチを入れたところ、爆発してしまったのだ。後で調べたところ配線が間違っていた。
アメリカとオーストラリアではコードの色が違う。田舎のオーストラリア人にはこのようにのんびりとして大雑把なところがあり、それは大らかさという美点にもなっている。
「だが、全世界が相手となると、そんなことは言っていられない。これはやり遂げなくてはならない一大プロジェクトなのだ」
ジョン・ボルトンは気を引きしめようと心に誓った。
リチャードと外部から来たエンジニアたちは、これを組み立て直すのに、すでに2週間の時間を費やしていた。修理はまだ完了していなかった。
テストをするためには、最低でもあと3日以内(月面着陸の2日前の19日まで)に修理して、テスト直しなくてはならなかった。そこでジョン・ボルトンはそのように指示を出した。


NASAの要請


所長のジョン・ボルトンは1968年後半に、妻と共にアメリカに呼ばれ、NASAからアポロ11号計画に協力をするように要請を受けた。NASAは当初、カリフォルニア州ゴールドストーン天文台にある設備を利用し、月面歩行の映像をとらえる計画だと彼に話していた。
NASAのゴールドストーン天文台(64メートルのアンテナ)が主要な中継基地となり、映像の受信やコロンビア号との通信を行う。
パークス天文台は月面歩行が遅れたり、何か起きたときのバックアップだという説明だった。そのほかにキャンベラ近郊にある施設(ハニー・サックル・クリーク天文台、26メートルのアンテナ、67年開設)が補助的な役割で参加するという。ジョンは快く引き受けた。


ところが、打ち上げの2ヶ月前の69年5月になって、計画が突如として変更されたのだ。
その頃、パークス天文台ではジョン・ボルトンと所員たちが、アメリカのパラボラアンテナをバックアップするために電波望遠鏡の準備をし、待機していた。最初の計画では、宇宙飛行士たちが月面歩行をしている間は、パークスでは月は出ておらず、月が出る13時前には、月面での任務は終わっている予定だった。



しかし、NASAは6時21分に月面に着陸した後、宇宙飛行士たちに月の6分の1の重力に慣れさせるために、休憩と体を調整する時間をとることに決めた。
NASAは全世界にテレビ中継するということで、特に宇宙飛行士たちの安全面に注意を払っていたのだ。そうなると、月面での任務がはじまる時間は、ゴールドストーン天文台では月が沈んで20分後ということになってしまう。一方で、これはパークスでは空に月がのぼる時間帯なのである。
そこでパークス天文台がバックアップの役割から、急に主要中継基地の役割へと格上げになった。これにはもう一つ理由があった。当初、宇宙飛行士たちがTVカメラの映像を送るためには、月面で3メートルのアンテナを組み立てて、シグナルを強くする必要性があると考えられていた。
しかし、パークス天文台の巨大なアンテナが良好な状態で電波を受信できれば、この作業の手間がはぶけるのだ。これは月での第一歩を中継するためには好条件だとNASAの担当者たちは考えた。


かくして、ニール・アームストロングの月面歩行の映像を、パークス天文台から世界中に発信するという要請を、ジョン・ボルトンたちはニクソン大統領から受けることになったのだ。