シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

アイスマン マフィアの殺し屋①

johnfante2006-07-06

Iceman: Confessions of Mafia Hitman [DVD] [Import]

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 アメリカのテレビ局HBOの、特番用に制作されたドキュメンタリー。
 1991年に行われた17時間に及ぶ「アイスマン」こと、マフィアの殺し屋・リチャード・ククリンスキの獄中インタビューを元に、彼の生涯と判明している殺人事件をコンパクトにまとめている。
 家庭人とヒットマンの二重生活を送ってきた、彼の素顔に迫る一本。その姿と人生は、米の人気ドラマ「ソプラノズ」や、ヒット映画「ロード・トゥ・パーティション」を思い起こさせる。

その男、凶暴につき


 リチャード・ククリンスキは、1935年の4月11日に生まれた。家族はニュージャージー州のジャージー・シティにある低所得者用の公営団地に住んでいた。
 彼の父親は鉄道の制動手で、母親は生肉工場で働いていた。リチャードは、相手が誰であろうと構わず、すぐに手を出す暴力的な父親に、当初は似ていなかった。
母親にも幼児虐待の傾向があり、リチャードが言うことを聞かないと箒やその他の物で叩いたりした。彼はとても厳しいカトリック家庭の環境下で成長した。

 リチャードはカトリック系の中等学校に通いながら、教会の侍者としても働いて自分で金を稼いだ。その頃、父親は家族のもとを去り、彼は若いうちから生活費などを自活しなくてはならなくなった。
16歳になる頃には地域でも有名な不良となり、目に入る者には誰にでも喧嘩を吹っかけるという荒れた青春時代を過ごした。
彼に近寄って話しかけようとしただけのストリート・ギャング6人を、物干し竿で半殺しの目に合わせたという伝説が残っている。
 リチャードは、常人には信じがたいような動物虐待をすることがあった。気晴らしのために、2匹の猫の尾を結びつけて、ベランダが投げ捨てるといったことをした。
また、生きたまま燃える生き物を見たいがために、猫を焼却炉に投げ込んで観察したりもした。建物の屋上に犬を連れて上がり、通りかかるバスに向かって投げつけたりもした。


 リチャードはとても攻撃的で暴力的な若者として認知されていた。どんな相手でも気に入らなければ、殴ることに躊躇を見せなかった。街を歩くときの護身用に、常に2本のナイフを持ち歩いていたという。
 最初に起こした殺人は1949年のことで、彼がたった14歳のときのことであった。ビリヤード場で口論になった相手をキューで何度も叩き、つい殺してしまったのである。
意図した殺人ではなかったので、彼はかなり動揺した。だが同時に、人間をぶちのめすときや殺すときに感じることのできる、緊張感と高揚感をこの頃から好きになりはじめたと告白している。

愛しい女、愛しい家族


 60年代には、リチャード・ククリンスキは巷では有名なストリート・ギャングであり、職業的にはビリヤードのハスラーという商売で小銭を稼いでいた。


 60年に、ククリンスキはバーバラという名前の女性と知り合った。死ぬほど美しい女だと思い、惚れこんでしまった。毎日毎日、彼女のために花束を買って家に送り届け、たびたび贈り物をした。バーバラとの出会いによって、ようやく更正の兆しが見えてきた。
 その甲斐もあって、二人は結婚することになり、三人の子供をもうけた。しかし、彼は中学校中退の学歴しか持っていなかったため、妻と三人の子供を養っていくのに充分な給料を稼げる仕事を見つけることができなかった。
 そこで、海賊版のポルノ映画を製作する事務所で働きはじめ、当時、有名なマフィアであったガンビーノ一家に映画を提供するという商売に参画した。


 それがマフィアとの縁となり、ガンビーノ一家のために殺しの仕事を請け負うようになった。ククリンスキはブルックリンで「ジェミニ・ランウンジ」という酒場を営むギャングと一緒に働くことになった。ククリンスキは残忍かつ狡猾であったので、一家に金を借りている債務者から取り立てることに才を見せはじめた。
 返済できなければ、命を代償として頂戴するのがマフィアの流儀であった。ジェミニ・ラウンジの地下室には、ぼろぼろに傷ついた死体が運び込まれ、ビニールで包まれた後に、どこかへまた運ばれていった。ククリンスキが人々に見せつけた恐怖のために、多くの人間はガンビーノ一家に負債を返済するようになった。


 当時のこんな挿話がある。
 ある家にククリンスキが現れたとき、一人の男はドアの向こうに隠れて居留守をしていた。しかし、ククリンスキはドアの裏で人が動く気配を察知した。その男がのぞき穴から外を見たとき、ククリンスキはその穴を通して銃を発射し、その男を射殺することに成功した。
 ククリンスキは人間を毒殺するために、シアン化物(ガス室で使われるのと同じ化学製品)の専門家としての知識を蓄えていった。それを液体状の物に混ぜ合わせ、ターゲットの飲み物に入れるのに使った。死体を処理するときの方法は、工場で押しつぶされる車に入れてしまうというのがメインだった。

殺し屋稼業での成功


 70年代までに、ククリンスキはマフィアのヒットマンであることから、非常に裕福になった。
 彼は中流階級が住む高級住宅街に大きな家を建て、妻と三人の子供と住んでいた。彼は一つの仕事の依頼に、少なくとも50,000ドルを請求をしていたという。
 自分の家族と近所の人間にはビジネスマンだと言っていた。妻は夫の異常な行動があっても疑うことがなかった(詳細はバーバラが出版した著書「Married to the Iceman」に書かれている模様。94年出版だが現在は品切れになっている)。彼が真夜中の変な時間に仕事のために呼び出されたり、仕事についてほとんど話さないにも関わらず、である。
 妻と子供は、ククリンスキの本当の仕事がなんであるのかを全く知らなかった。傍目から見れば、ほぼ完璧な家族だと言えた。彼は旅行することを嫌がり、できるだけ早く帰ってくるようにしていた。それから、家族とはいつも一緒に行動し、目を離さないようにしていた。復讐や誘拐を恐れていたのであろう。


 彼は自分が少年時代に味わったような耐え難いみじめな目に、自分の家族を合わせないように常に努力した。人の愛情というものに餓えていたので、自分を愛してくれる家族がいるという素晴らしい環境に夢中になったのである。
 あるクリスマス・イブの夜、家族がお祝いをしているところを抜け出して、ククリンスキはどうしても若干の金銭を稼ぐために出かけなくてならなくなった。
 その夜のターゲットの男は、彼に対して若干の言い逃れをした。彼は車のなかで、その男をピストルで射殺した。彼は夜中に家に帰り、その殺人のニュースがテレビで流れるのを見ながら、翌日のクリスマスの朝のために、子供への贈り物をツリーの下に並べるという作業をしていった。


 80年代には、ククリンスキは犯罪組織のなかの大物になっていた。
 ある日、薬剤師のポール・ホフマンという男が、大量にタガメント(Tagament)という薬品を入手して、組織に売りつけて利益を上げようとしたことがあった。
 ククリンスキはホフマンに会って、25,000ドルを現金で手渡した。ホフマンが金を手にして立ち去ろうとしたとき、ククリンスキは顎の下に拳銃を突きつけ、「取引なんてものは存在しない」と言い、銃をぶっ放した。しかし、それではホフマンは死に至らず、床の上で血液を流しながら倒れただけだった。拳銃の銃身が詰っていたのである。


 剥き出しになったタイヤの鉄の部分をつかみ、それで殺しを仕上げた。それから、ドラム缶のなかに入れて、ホテルの横の道端にそれを置いて立ち去った。そのドラム缶は数週間もの間、その場所に放置されていたという。
 ククリンスキは犯罪組織のなかで、世界的な規模のポルノ産業、麻薬取引、契約殺人、ギャンブル商売に勤しむようになった。そのせいもあり、50歳を過ぎた頃から、ヒットマンとしての殺しの技術にかげりを見せるようになり、その処置も次第に杜撰になっていった。証拠を残すようになり始めたのである。
FBIと警察が彼に対して注意深い目を向けるようになった。


《参考》
Clime Library http://www.crimelibrary.com/notorious_murders/mass/kuklinski/index_1.html