シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

アイスマン マフィアの殺し屋②

johnfante2006-07-08

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終わりのはじまり


82年12月のある夕方、リンカーン・トンネルの近くで、ルート3号線を少し入ったとこにあるヨーク・モーテルの31号室に、ククリンスキはハンバーガーを持って入ってきた。
仕事仲間のゲイリー・スミスの好物がハンバーガーであったので、物事は簡単に進むかに見られた。食べ物の入った紙袋を手渡し、一緒にいた仲間のデップナーに別のハンバーガーを渡した。それは毒物入りではないという意味だった。
ククリンスキとデップナーの2人は、スミスがバーガーをがつがつ食べるところを見ていた。しかし、何も起こらない。彼は困惑した。シアン化物をケチャップのなかに加えており、それは通常かなり早く効用を発するはずである。

最後にようやくそれは効き出した。デップナーに合図した。デップナーはランプのコードで、スミスの喉のまわりを締め、自分の同僚が呼吸をしなくなるまで力を込めた。デップナーはこの怖しい仕事を果たしたとき、いつかは自分が同じ目に会うことを知っていたのに違いない。
デップナーの妻のバーバラが、スミスの遺体を車から放り捨てることができずに、モーテルに戻ってきた。重くて一人では取り出せなかったのだ。ククリンスキはスミスの死体を、ベッドのマットレスとスプリングの間に置かせた。他の誰かに見つけされればいいと考えたのだ。


4日後の82年の12月27日、そのモーテルの部屋を借りたカップルが、変な臭いがすると言って管理人に訴えた。マットレスが持ち上げられたとき、部屋の暑気のせいで黒く腐った死体が出てきた。後にそれはゲイリー・スミスだと確認された。忙しいモーテルであったので、それが発見されるまでに、少なくとも20人の客がその部屋を使用した。
ククリンスキは、スミスの死体の首に絞殺した痕を残していた。それが他殺死体だということは、誰の目にも明らかだった。
一方、デップナーがスミスを殺害している間、ククリンスキはデップナーが多くのことを知りすぎていると感じていた。それは彼の好むところではない。彼の仕事について多くを知るとき、仕事仲間は不思議と消えていく運命にあるのだ。

さらなる死体


 翌年の83年の9月25日に、ルイス・マスゲイ(Louis Masgay)の死体が公園で見つかった。死亡推定日時を混乱させるために、ククリンスキは2年間もの間、それを捨てる前に冷凍庫のなかで凍らせておいた死体であった。
この事件を調査した当局の人間たちは、この身の毛もよだつ死体の処置方法のために、殺害した犯人を「アイスマン」と呼ぶようになった。
不運なことに、この死体が発見される前に、それは完全には解凍されていなかった。そのために、科学捜査の担当者たちは、ルイスの死に犯罪が絡んでいるものと見なした。


同じく83年の5月14日に、もう一つの死体が静かなサイクリング・コースで見つかった。ダニエル・デップナー(Daniel Deppner)という名前の男であった。ククリンスキの仕事仲間であった男である。
ゴミ捨て場で大きな七面鳥がデップナーの所在を指し示していた。自転車に乗っていた男性が、鳥が何をしているのか見るために近寄ると、大きな緑色の鞄に気がついた。人間の顔と手がそこから突き出しているのを見て、男性は警察に届け出た。
警察はそのゴミ捨て場が、ククリンスキ一家がしばしば乗馬などの遊びに行っていた牧場から3マイルほどの距離であることに注目した。こうして、ククリンスキが主要な容疑者として浮上した。しかし、彼は非常に賢くて用心深かったので、証拠を得るとなると難しかった。それから2、3ヶ月の間に、さらに2つの死体が発見された。
いずれも、ククリンスキの仕事仲間で、最後に接触があったのは彼であった。これらの殺人事件に関係しているとして、警察は3年の間、彼の周囲を捜査していった。

包囲網が迫る


86年、州の当局と連邦当局からなる特別捜査班が、リチャード・ククリンスキ一人のために設立されていた。この捜査班は、彼の現在と過去の証拠を集めるために活動した。
捜査班はククリンスキを裁判にかけるだけの証拠を集めるために、覆面捜査官を送り込むことにした。彼はドミニク・ポリフロン(Dominick Polifrone)という名前である。
ドミニクはククリンスキに、自分も殺し屋だと言って近づいた。ニューヨークのダウンタウンを根城にする組織のために働いていると言った。ドミニクは、ククリンスキが自分が犯した殺人について話し、それを演じてみせているときの音声を録音することに成功した。捜査班はククリンスキがヒットマンであることを確信した。なぜなら、彼がドミニクに対して、あまりに明け透けに自分の過去の経験を話したからである。


 86年の12月17日、特別捜査班はククリンスキ家の周囲の道路を封鎖して、家にいた彼を逮捕した。5人の屈強な男が束になってかかり、彼を車に押し込んだ。
しかし、彼は全く抵抗しなかった。
その逮捕のときに現場にいた捜査官の1人は「あまりに堂々とした風貌と態度だったので、とんでもない大物を捕まえてしまったと怖くなった」と語っている。

アイスマンの全貌


 まず最初に、ククリンスキは5件の殺人事件について嫌疑を受けた。その法廷裁判はテレビ放送され、多くの人間が目撃することになった。彼はその殺人の全部が自分の手によるものだと認め、ビジネスのためにやったことだと言及した。
ククリンスキの妻と三人の子供たちは、とても衝撃を受けた上に、身の毛もよだつような思いだった。しかし、リチャード・ククリンスキが契約で働く殺し屋(コントラクト・キラー)だとは認めようとしなかった。
 ククリンスキは歴史上で、もっとも悪魔的な殺人者だと考えられるようになった。判決では生涯2回分の年数の刑期を宣告された。その計算では、彼が仮釈放の資格がとれるようになるのは、60年後の111歳になったときである。


生涯にわたって、ククリンスキは200人以上の人間を始末してきたと主張している。彼は人々を殺害することに対して後悔は感じないが、生活のためにやらなくて良かったら、やらなかっただろうとも言う。自分がしたことについて考え始めるとややこしくなるので、それらの事柄に関しては考えないようにしているという。
しかし、殺し屋になったことは後悔している。なぜなら、もっとましな仕事や人生もあったと、刑務所に入ってからは考えるようになったからだ。


91年にHBOのドキュメンタリー番組(「Iceman: Confessions of Mafia Hitman」)のためにインタビューを受けたとき、逮捕が家族に与えた衝撃について訊ねられたとき以外は、ほとんどククリンスキは何の感情的な変化を示さなかった。
ドキュメンタリーの最後のシーンで、家族がいかに大切で、彼の人生のほとんどすべてを意味していたことを話すとき、目に涙をためつつも、泣くことを堪えようと口や顔を振るわせるククリンスキの表情は、何とも印象的である。
 2006年3月、リチャード・ククリンスキは、獄中においてその70年の生涯を終えた。しかし、死因は不明とされており、様々な憶測を呼んでいる。