- 作者: トラウデル・ユンゲ,足立ラーべ加代,高島市子
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2004/01/25
- メディア: 単行本
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『ヒトラー 最後の12日間』は、ドイツでは社会現象になるほどの反響を呼んだ。
ナチスの負の遺産を抱えたドイツでは、ヒトラーに関して自由な意見をいうのはタブーであり、学校教育を通じて、第三帝国の歴史とその過ちを徹底的に教えこんでいるからだ。
ドイツには反ナチス法というものさえ存在する。映画に批判的な人は、ヒトラーを人間としてえがくことだけで拒否反応を示す人から、究極の悪であるナチズムへの憎しみが軽減することを懸念する人まで、さまざまだという。
ただ、そのうらに共通してあるのは、すべての咎を「悪」という特別な存在に押しつけ、敗戦を機に自分たちが行った所業をリセットしたことへの罪悪感だ。
ナチズムを人々をおそった疫病のように扱うことで、ヒトラーやナチス・ドイツがなぜ生まれたのか、という問いを棚上げにしてしまったのだ。
だから、この映画が突きつけるのは、独裁者の人間性をえがくことの可否だけではない。
ナチスの台頭を許した罪が自分の内側にあり、独裁者に魅了された理由を追及してこなかったことの方が問題なのだ。
映画とは不思議なもので、頭で悪人だとわかっていても、ヒトラーがドラマの中心に置かれていれば観客は彼に寄りそって共感してしまう。
そんな映画ならではの心的効果が、かつてヒトラーの示した理想や価値に共鳴し、第三帝国への道を進んだドイツ人に自らの「内なるナチズム」の問題を想起させたのではないか。
この映画には原作があるというので手にとってみた。
映画の語り手のトラウゲル・ユンゲが書いた『私はヒトラーの秘書だった』は、その原作の一つである。
元ナチス幹部が書いた回想録は山ほどでているが、彼女の文章には感傷を排し、沈思黙考を重ねた人の本質をつく語りがある。
たとえば、ヒトラーが自殺を選び、自分の死体を焼かせた理由についてユンゲは、裸のムッソリーニが広場で逆さ吊りにされた写真を見て戦慄したからではないか、と推測しているところなどがそうだ。
ダンサーを目指し都会に憧れる、この美しい二十代の女性が抱えた「大量殺人者に仕えていたという自覚を持って生きてゆくこと」の苦悩は、この六十年間、ドイツ人全体が抱えてきた苦しみを象徴しているといっても過言ではない。
二〇〇五年の年明けに、天皇裕仁が人間宣言を決意するにいたるまでの一日を描いた、A・ソクーロフ監督の映画『太陽』がロシアで公開された。
これまで天皇裕仁のドラマをきっちり撮った映画がなかったことには驚くが、これを日本人ではなくロシア人が撮るというのは、どういうことなのか。
『ヒトラー 最後の12日間』は、そんな私たち自身の問題をも思い起こさせてくれるのだ。
初出 : 「ザ・パーム」