シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

シャドウ・ダイバー ③

johnfante2007-02-18

チャタトンとコーラー


水深70メートルの苛酷な環境下、死傷者が続出し、仲間のダイバー3人が死亡してしまった。他のダイバーたちが恐れをなして去っていくなか、残ったのはジョン・チャタトンとリッチー・コーラーの2人だけだった。
チャタトンは、ベトナム戦争帰りの屈強なダイビングを始めた男。そのパートナーのリッチー・コーラーは、幼いころから海に親しんだ荒くれダイバー。ふたりとも、謎の潜水艦を見てからは、その正体さがしに魅了されてしまったのだ。


1993年7月31日。2人は既に10回以上潜っていたが、艦長室ではじめて双眼鏡を発見した。しかし、何の記載もなかった。既に<U-Who>の謎を誰がつきとめるかは問題でなく、2人はただその謎にとりつかれていた。3度目のシーズンも終わったが、あまりに一緒に過ごす時間が少ないために、チャタトンの結婚は破綻した。
ドイツのUボートであるはずの潜水艦の正体は、なかなか判明しなかった。艦名は、乗組員の名は、いつ、どのようにしてこの艦は沈んだのか。歴史家としては素人のチャタトンとコーラーが、陸上で資料を読み、当時の文献をたどっていく背景には、謎を明らかにしたいという並々ならぬ熱意があった。
彼らは出来得る限りの私財と時間を費やしてUボートの謎を探るダイビングを行うほか、米軍の資料室、図書館、関連雑誌などなど陸上での調査を徹底的かつ緻密に連綿と続けた。今や2人はこのUボートの謎解きをすることが生きる目的と化していた。

Uボートの謎


2人はUボートで魚雷が爆発したという仮説を立てた。
連合軍や他のUボートの魚雷が命中したのなら記録が残っているはずだが、自分の魚雷の爆発なら記録がなくても不思議ではない。戦争終結までに5万5千人のUボート乗組員のうち、3万人が死んでいた。戦争末期ではUボートでの戦死者数がもっとも多かった。
「どうしてこの男たちは、死ぬとわかっているのに戦い続けられたのか」。
沈没船でいつも見ている遺骨への思いが、同情から深い共感へと変わっていった。その後の調査で、1944年4月15日に出港したことが分かった。
2人にとって、この潜水艦の調査をしに潜ることは、たんなるスポーツでも、好奇心や功名心が理由でもない。人間としての生き方。困難に直面したとき、いかに冷静に対処し、信念をつらぬけるか、それが試されているとはっきりわかっているのだ。だから潜って乗組員の遺品をあつめ、艦名を知るための努力をやめなかった。


1997年8月30日。もう6年もシーズンだった。海はおだやかだった。チャタトンとコーラーは沈没船のなかにいた。チャタトンは電動機室に艦名のタグが貼ってあるらしい、靴箱ほどの大きさの箱を見つけたがナイフでもびくともしなかった。海からあがった。
「やったじゃないか」とコーラー。
「大ハンマーを使う。もう箱は俺のものだ」とチャタトン。
 70メートルの深さに大ハンマーをぶら下げていくのは、タンクのガスを消費する最高の手段だった。捨て身の計画にでるときが来たのだ。コーラーも反論できなかった。
しかし、電動機室の箱は加圧水素タンクにくっついていた。叩けば爆発するかもしれない。
《今ここを去れば、身体は一つにつながったまま出られる。ものごとが簡単に運ぶうちは、人は自分のことを本当にはわからない。U-Whoが俺の試練のときだ。いま俺が何をするかで、俺という人間が決まる》。ハンマーがタンクを叩いた…。
 <U-Who>は<U-869>と特定された。


蒼海の財宝

蒼海の財宝

明かされた真実


このUボートが記録に残っていないことには歴史的な理由があった。
1944年1月。50人の若者がデンマークブレーメンの港町で訓練を受けていた。ほとんどが経験のない者ばかりだった。「Uボートに乗れば必ず死ぬことになる」と言われていた時代だ。
1944年8月30日。<U-869>はシュテッティーンの艦隊基地に入った。街は連合軍の爆撃で焼け跡になっていた。出撃の日は12月1日と決まった。艦長のノイエルブルクの友人の医師は、彼が健康を害しており、潜水艦を指揮できる状態にないという手紙を書いた。多くのUボートが任務から帰らないことを知っていた。妻も喜んだ。しかし、ノイエルブルクはその申し出を断った。
魚雷員のネーデルは乗組員仲間を連れて実家帰り、婚約者のノラと食事と酒を楽しもうとした。しかし、彼らは黙りこくって目の前を見つめるばかりだった。ひとりひとりと涙を流しはじめ、それがついに全員となった。


<U-869>はドイツを出て、ノルウェーの海岸線を北上した。12月29日、司令部は海軍区分域CA53に向かう命令を出した。ニューヨークの南東およそ200キロメートル付近である。アメリカと戦うという名誉ある任務をさずかった。
 しかし、傍受を恐れたため無線を<U-869>は使わず、その後連絡が取れなかった。
1945年1月6日には、司令部は<U-869>を沈没したものと見なしていた。その後、ニューヨークからジブラルタルへ行き先変更を命じたが、やはり返答はなかった。艦長のノイエルブルクが生まれて初めてとった戦争行動は大胆なものだった。遠回りして連合軍の手薄なデンマーク海峡を行くというものだ。
つまり、14日間ニューヨークに滞留するために、潜水艦を往復でおよそ100日間走らせることになる。無線機が壊れていたのか。司令部と通信できていれば、ニューヨークに行く必要はなかったのだ。
連合軍は暗号解読をしていたので、<U-869>の現在地と進入路をつかんでいた。米軍情報部はUボートの掃討を命じた。
艦内では若い乗組員たちが、チェッカー大会や嘘つき大会を開いて時間をつぶしていた。運命共同体の<U-869>はさながら彼らの家のようであった。

Uボートの最後


2月のはじめにはアメリカの領海に入り、ニューヨーク進入路に迫っていた。どんな敵の艦船でも、見つければそれが<U-869>の攻撃目標だった。おそらく2ノットでのろのろ進みながら、ノイエルブルクはシュノーケルを使用していただろう。
外の水の音、電気エンジンのブーンという音、遠くを走る敵艦のスクリューの音なども聞こえただろう。<U-869>は攻撃準備を完了した。
彼らは戦争に負けることも、故郷に帰れないことも知っていた。ノイエルブルクは潜望鏡をあげた。乗組員は戦闘配置についた。数秒後、<U-869>の鋼鉄の葉巻型の船体内部で、「一番発射管用意。…発射」と彼は命令をささやいた。


<U-869>の発令所の大破は、その潜水艦自身が発射した魚雷によるものと見てまちがいない。逆戻り魚雷である。音響誘導魚雷を使用した場合は、急速潜航する決まりだった。
魚雷は<U-869>に衝突し、弾頭に内蔵されたピストルが「かちりという音」を立てて爆発を誘発するまで、一秒ほどの時差がある。爆発寸前に、乗組員がちょうど聞き取れるくらいの音がしただろう。
おそらく30秒とかからずにUボートの艦内は海水で満ち、1分と立たずに海底に沈んだだろう。原因は不明だが、ノイエルブルクが司令部からのコース変更命令を受け取らなかったことは確実である。「忘れられた潜水艦」であった。チャタトンとコーラーは乗組員の遺族探しがはじまった。ひとりひとりを訪ねていき、遺品を渡すのだ。それはコーラーの祖父がかつてしたことと、奇しくも同じだった。