シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

フランク・セルピコ ②

johnfante2007-06-25

Serpico

Serpico


死地からの生存


弾丸はセルピコの聴神経を切断した。左耳は聞こえなくなった。
脳に残る弾丸の断片により、慢性的な痛みで苦しむことになった。
銃撃の翌日、ジョン・V・リンジー市長と市警本部長のパトリック・V・マーフィーがセルピコを見舞った。
彼が傷から回復するためベッドで横になっている間、警察署は1時間ごとに見舞いを送りこみ、彼を悩ました。
故意にセルピコを寝かせようとせず、その回復を阻害しようとしたのであろう。
しかし、彼は生き残った。そして、ナップ委員会の前で最終的に証言することになった。


セルピコが銃撃されたときの状況は、すぐさま問題となった。
彼は麻薬取引の間、38口径で武装していた。
彼は2人の同僚がアパートのなかまでついてきていないことに気づき、それで、ちょっと容疑者から目をそらした瞬間に撃たれたのである。
持ち上がってきた問題は次のようなものである。
セルピコは、2人の同僚の画策により、アパートのなかにおびき寄せられ、処刑されそうになったのではないか」と。



アメリカで放映されたTV版のセルピコ


1971年5月3日、ニューヨーク・メトロマガジンは「正直な警察官の肖像」というタイトルの、セルピコに関する記事を発表した。
5月10日、彼はギャンブラーから賄賂をとったとして訴えられた、NYPD警部補の裁判で証言した。
5月14日、彼は市警本部長により、金のシールドを与えられて、刑事に昇進した。
そして、1971年9月、Gadfly Magazineは、彼が顔を撃たれた方法について、あらゆる詳細を含んだ記事を発表した。


米史上初、警察組織の腐敗について証言した警官


1971年10月、そして再び12月に、セルピコはナップ委員会の前で証言した。


「今日、ここで私が証言することによって、将来の警官たちが、私と同じようなフラストレーションや不安を経験しないことを望みます。私が警察組織内における腐敗を報告しようとしたため、私の上司は過去5年間、私に服従を強要してきました。正直な巡査が、不正直な巡査のことを恐れなくてはいけない、この空気は私たち自身が作っているのです」


「問題は、正直な警察が恐れを抱くことなしに、そして他の警官からの嘲笑や報復を恐れることなしに、正しい行動を選択できる空気が、いまだに存在しないということです」


このことでフランク・セルピコは、広く蔓延した警察組織全体における腐敗と不法報酬について、公然と報告し、証言したアメリカ史上最初の警察官になった。
この不法な報酬は、当時、年間何百万ドルもの規模に達していると言われていた。


その後の歩み


ニューヨーク市警察署の名誉勲章を受けた1ヵ月後、フランク・セルピコは、1972年6月15日に引退した。
彼は傷を回復するためにヨーロッパに行き、傷痍年金を受給し、ほぼ10年をそこで過ごした。
そして、生きて、旅行して、勉強した。
ヨーロッパで勉強している間、フランクは拘留されて、裸にして調べられ、税関の官吏によって警告されたこともある。
「我々が望めば、お前などいつでも捕まえられるんだからな」
さらに悪いことに、彼がヨーロッパで知り合った29才の妻はガンで死んだ。
これらの出来事の結果として、彼は長期の鬱病に悩まされることになった。


FBIがニューヨークとニュージャージーにおける警察の組織的腐敗の調査において、セルピコに協力を要請するまで、彼はスイスに住んでいた。
彼は1980年にアメリカに戻り、NY州の山奥に住み、現在は警察学校の講師などをして過しているという。



《参照》
http://www.frankserpico.com/