シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ミリキタニの猫 ②

johnfante2007-10-15

ミリキタニの猫 [DVD]

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過去をたどる旅


リンダはジミーと話すうちに、彼の過去を知るようになる。
彼は1920年カリフォルニア州サクラメントで生まれて、子供の頃を日本の広島で過ごした。
18歳のときに軍国主義が強まる日本を逃れて、芸術に生きようと決意してアメリカに戻る。
工場労働をしながら、日本の書の伝統と西洋絵画をミックスした新しいスタイルで、将来を有望視されていた画家だった。
1941年、日本の真珠湾攻撃のときには、姉のカズコ一家と共にシアトルに住んでいた。


それが一変することになった。
翌1942年に、大統領政令9066号により、ジミーとカズコは何百マイルも離れた別々の強制収容所に入れられる。
カズコはアイダホ州のミニドカに、ジミーはカリフォルニア州のツールレイクに送られた。
姉のカズコとは離れ離れになり、それ以来生き別れとなって、生死も分からない状態となった。



ジミーの87歳の誕生日パーティ


ジミー、NYへ


ツールレイクでは、ジミーと同様に何千もの日系人が、アメリカの市民権を放棄した。
アメリカで市民権を持たないということは、選挙権や公職の放棄はおろか、運転免許もパスポートも持てず、公教育も社会的給付も受けられないことを意味した。
戦争が終わっても、ジミーをはじめとする何百人が理由もなく拘束された。
ジミーは1946年にニュージャージー州の農場に移されて、この緩やかな収容所で12時間の流れ作業で働いた。
1947年の8月に、ウェイン・コリンズ弁護士の尽力でようやく解放された。


ジミーは芸術活動を再会しようと、50年代の初めにニューヨークに流れ着いた。
コロンビア大学の図書館で寝泊りしていたが、教会で賄いつきの部屋を与えられて、料理人として訓練を受けることになった。
それから長い年月、リゾート地やカントリークラブを渡り歩いて働いた。
ロングアイランドのレストランで働いているときには、ジャクソン・ポロックと知り合った。


その後、NYのパークアベニューで住み込みの料理人になったが、80年代後半に雇用主が亡くなると、ジミーは突然住む場所も職も失ってしまった。
社会保障番号を持たないので、いかなる公的ケアを受けることもできず、1年後にはワシントン・スクエアの公園で暮らすようになっていた。
2001年にリンダと出会うまでは、そうやってホームレスの生活を続けていた。
60年も前の戦争の記憶。けっして忘れることのできない癒えない傷。
ジミーは長い間、心のなかで、アメリカの片隅で、たった一人で闘い続けていたのだ。