シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

永井荷風 ①

johnfante2008-02-19

あめりか物語 (岩波文庫)

あめりか物語 (岩波文庫)



写真は「浅草ロック座」のストリッパーたちと永井荷風


アメリカ嫌い


「フランス! ああフランス! 自分は中学校で初めて世界史を学んだ時から、子供心に何という理由もなくフランスが好きになった。自分はいまだかつて、英語に興味を持った事がない。一語でも二語でも、自分はフランス語を口にする時には、無上の光栄を感ずる。自分が過る年アメリカに渡ったのも、直接にフランスを訪うべき便宜のない身の上は斯る機会を捕えよう手段に過ぎなかった。」(「巴里のわかれ」)


二十代前半の荷風エミール・ゾラとギィ・ド・モーパッサンボードレールの文学に心酔しており、当初は彼らが描いた世界を直接目で見たいという動機からフランス留学を望んでいた。
ところが、上級官僚であった父親は長男に実業を学ばせようと考え、荷風日本郵船信濃丸でアメリカに向かわせた。アメリカは荷風にとってフランスにたどり着くまでの通過地点にすぎなかった。


ワシントン州のタコマ市で英語を学び、ミシガン州の大学の聴講生をしているうちに最初の二年が過ぎる。日記「西遊日誌抄」によれば、フランス移民の多いルイジアナの大学への入学まで企てている。
アメリカ滞在中なのに、フランス語の家庭教師を雇い、ボードレールを仏語の原書で読んでいたという。『ふらんす物語』の「再会」にも同じようなことが書いてある。


「吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧州に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。」(「再会」)


パリへ


その後、フランスへの渡航費用を稼ごうとニューヨークで仕事を探しはじめ、結局、父親の口利きで横浜正金銀行の現地職員に採用され、さらに二年近くをそこで過ごす。
アメリカに渡航して約四年が過ぎたとき、銀行からリヨン支店への転勤を命じられ、ようやくフランスの地を踏むことになる。その異動の裏には父親の口利きがあった。 
感激は大きかった。『あめりか物語』付録の「船と車」に、ル・アーブルから汽車に乗ってパリのサン・ラザール駅に初めて着いたときの感激が書いてある。


「汽車の響きにその窓、その花園から、こなたを見返る女の姿を見て、これまで読んだ仏蘭西劇や小説に現われている幾多の女主人公を思い出すばかりであった。」(「船と車」)


そのときは会社に雇われていて、すぐにリヨンに行かなくてはならず、パリには二日しか滞在できなかった。荷風は馬車を一日雇い入れて、市中を巡り歩いた。


シャンゼリゼの大通り、凱旋門ブローニュの森、または名も知れぬ細い露地の様に至るまで、自分は、見る処、到る処に、つくづくこれまで読んだフランス写実派の小説と、バルナッス派の詩篇とが、如何に忠実に、如何に繊細に、この大都の生活を写しているか、という事を感じ入るのであった。」(「船と車」)