ヒトラーの贋札 ベルンハルト作戦 ②
- 作者: ローレンス・マルキン,徳川家広
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/01/11
- メディア: 単行本
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右写真は現在のブルガー氏
ポンド札贋造
ポンド札になったのは、英国がドイツの最強の敵国だったことのほかに、技術的な理由があった。
英国では伝統を重んじる風潮から、18世紀以来、紙幣の様式や印刷方法を変えていなかった。もっとも多く流通していた5ポンド札(約1000円)は、用紙に精巧な透かしが入れられているが、印刷的には無地で地模様がなく、単色刷りという偽造が比較的しやすいものだった。
しかし、偽造においては限界もかかえていた。
亜麻製の用紙の手ざわりが本物と異なること。秘密のシークレット・マークを見逃し、紙幣の記番号の配列ミスなどもあり、とても精巧な贋札とはいえなかった。
そこへ世界的なプロの贋札作りで有名だった、サロモンが移送されてきた。
サロモンは自分が生き残る目的もさることながら、この大規模な贋札製造のプロジェクトに生きがいを見いだし、おのれの持てる技術のすべてを注ぎこんだ。
彼は用紙素材の改善、製版、印刷についての技術指導をし、イングランド銀行が見抜けないような贋札をつくるために、みずから原版づくりをおこなった。
アドルフ・ブルガー
一方、スロヴァキア出身のブルガーは、指折りのプロの印刷工だった。収容される前は、同胞のために証明書や書類の偽造をしていた。
妻のギーゼラとともに逮捕され、アウシュヴィッツで生き別れになったのち、ザクセンハウゼンの贋札工場に送られてきた。
サロモンにとっては、まるで収容所にいることを忘れるかのような日々だった。今まで自分のことしか信用せず、一人で生きてきたサロモンは、ブルガーやコーリャたち仲間に心を許しはじめていた。
「自分が失敗すれば、贋札作りにかかわる144人の囚人の命はない」
全員の命は、サロモンひとりの手にかかっているといっても過言ではなかった。
いくつかの困難な課題を乗り越え、サロモンはその卓越した技術で完璧だと思われる、ポンド紙幣を作り出した。
完成した贋札を持って、スパイがスイス銀行と本場のロンドンの銀行を訪れる。その報告を、サロモンと囚人仲間たちは待った。ベルンハルトがニヤニヤしながら言った。
「おまえたちの作った贋札は、スイスとロンドンの銀行で本物だと認定された。この調子でどんどん作ってもらいたい」
囚人たちは、抱きあって喜んだ。このまま10ポンド、20ポンド、50ポンド札を作り続け、大量生産をしているかぎり、ガス室送りになる心配からは逃れられるのだ。
サロモンは感無量だった。
一人の悪党が生まれてはじめて、「人々の命を救う」ということを成し遂げた瞬間だった。それは図らずも、彼が長年かかって身につけた、犯罪的な技術のおかげであった。
アドルフ・ブルガーのインタビュー映像
ドル札贋造
サロモンたちが喜んでいられたのも、つかの間だった。
ある日、アウシュヴィッツから資材として送られてきた古紙の中に、囚人仲間の子供たちのパスポートがみつかったことから事態は急変。それは、子供たちの死を意味していた。それについで、ブルガーの妻がアウシュヴィッツで殺されたことが判明する。
この出来事により、サロモンとブルガーは、今まで考えないようにしていた現実を突きつけられた。自分たちが生き残るために、ナチスに協力していること。それがドイツの戦況を有利にして、家族や恋人、そして同胞たちが置かれている状況を悪化させているということ。
妻を殺された正義感の強いブルガーは、「自分たちが決起し戦うべきだ」と協力を求めるが、サロモンは「無駄死にするだけだ」と言って、相手にしなかった。サロモンには、せっかく助かった自分たちの命を危険にさらしてまで、外の世界にいる「同胞」を守ってやる理由が見つからなかった。
贋ポンド札の生産が軌道に乗ると、サロモンたちに新しい任務が言い渡される。今度は贋ドル札の製造。その印刷には、ブルガーの持つ特別な技術が必要だった。
当時のアメリカのドル紙幣は、特殊な木綿用紙を使い、肖像や文字部分はインキのもりあがった凹版印刷という、特殊な技法を駆使したもの。これはポンド札と比べると、精巧な偽造がきわめて難しいものだった。
サロモンは凹版印刷のかわりに、写真的な技法をつかったコロタイプ印刷方式で試みることにした。これができるのは、ブルガーくらいだった。
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