シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

異邦のふるさと「アイルランド」 ②

johnfante2008-03-10

異邦のふるさと「アイルランド」―国境を越えて

異邦のふるさと「アイルランド」―国境を越えて

 

右写真は北アイルランドのミューラル


アイルランド移民


であるから、ポール・マルドゥーンやシェイマス・ヒーニーら現代詩人の翻訳者でもある著者は、文学と現実社会の間を往還しながらアイルランドの「現在」に肉薄しようとする。
およそ研究書の類とは似つかない複眼的な章立てによる構成は、そのままアイルランドが抱えている問題の異種混淆性を表しているようでもある。


例えばニューヨークで同時多発テロが起こったとき多数の警察官や消防士が犠牲になったが、彼らの多くはアイルランド系であった。二〇〇二年の段階でアイルランド島の人口は約五六〇万人に過ぎないが、米、英、カナダなどを中心に本島以外に住む移民系の人口は約七〇〇〇万人にも及んでいる。
だから著者が故郷と言うとき、それは単純に或る人の生まれ育った土地を指しているとは限らない。世界に拡散して暮らす移民の末裔にとって、アイルランド島は「故郷」であると同時に見果てぬエメラルドの島としての「異邦」でもあるのだ。


アイルランド紛争


島内に視点を移せば、故郷を見えにくくしてきた要因として一九六〇年代後半に勃発したアイルランド紛争が挙げられる。
アイルランド共和国独立後も九七年に至るまでIRAの完全な停戦は実現しなかったし、停戦が持続したのは移民問題を抱える米国の後押しがあってのことであった。
著者の言うとおり「故郷」と「異邦」とを布置してみると、政治・宗教的にまだら模様のようになった北アイルランドの交雑した「現在」の見取り図が作れるようになる。英国から入植してきたプロテスタント系の住民にとって北アイルランドは異邦であったが、今となっては自分たちが生まれ育った土地でもある。
一方、先住者側のカトリック系の住民にとって北アイルランドは祖先の土地であったが、今では英国の一部をなす異邦でもある。アイルランド島の外部に住む移民の前にも、内部に居住する住民の前にも等しく「異邦のふるさと」という矛盾した問題が横たわっている。


現代詩の読解


このような精確な認識に著者を導いていくのが、現代詩人による詩作品の読解であることは興味深い。これは土着語の上に英語が積層し、時おり地肌を覗かせているようなアイルランド島の植民地化後の言語状況を掴むためには有効であろうし、故郷と異邦とが混在する島の住人の精神の大地を穿つためには唯一の方法かもしれない。
ヒーニーの「掘る」という詩は、島の七分の一を覆うボグ(炭地)の地層からピート(泥炭)を堀りだす祖父や父親の農作業の営みに、自らの詩を書く行為を重ね合わせ、自分はペンで大地を掘るのだという決意を固める作品である。


なるほど本書の著者の姿も、詩人がアイルランドの大地に思い思いに掘っていった鉱坑を調べてまわる測量士に似ている。それは英国が植民地支配のために行った陸地測量とはコントラストをなす。
そのような意味では、著者のアイルランド巡礼が終章で「東北」という自らの故郷の再発見に接続していることを見過ごしてはならない。異邦の土地で物事を掘り下げて考えることは、自己の中にある鉱脈を探り当てる行為と等しいのであり、これは洋の東西を問わず不変なことなのである。



初出:「三田文学