シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ドクター・デス ②

johnfante2006-10-01

Harold Shipman - Mind Set on Murder: The True Story of Why Harold Shipman Was Addicted to Killing

Harold Shipman - Mind Set on Murder: The True Story of Why Harold Shipman Was Addicted to Killing


ハロルド・シップマンの来歴


1946年1月14日、ハロルド・シップマン(通称フレッド)は一般的なサラリーマン家庭に生まれた。
学校の成績は極めて優秀。17歳の時に、母親ヴェーラ(43)が肺ガンで死去した。
65年にリード大学の医学部に入学するが、洋服店に勤めていたガールフレンドのプリムローズさん(当時17歳)が妊娠し、翌年に結婚して、その後4人の子供をもうけた。
1970年の大学卒業後、シップマンは4年間総合病院で研修した後、家庭医として登録してポンテフラクト(Pontefract 人口3万人の小さい町)の診療所で働き始める。

74年に開業医となるが、その頃から、しばしば意識消失発作をおこすようになり、合成麻薬系鎮痛剤ペチジンの中毒に陥っていることが発覚した。
同僚が、シップマンが麻薬中毒になっていることを見破り、処方箋を偽造し麻薬を持ち出していたとして逮捕。高額の罰金を払わされた上に、勤務先の病院を解雇された。


ファミリー・ドクターになる


医師会はこの時免許剥奪等の処置をとらず、厳重注意の書面を送っただけだった。シップマンはヨーク市で精神科に通い、薬物乱用者の更生治療を受けた。
1977年にイングランド北西部の町ハイドで、再び開業医として働き始めた。そして、1993年に自分の診療所を持つまでに至った。


ハロルド・シップマンは、ファミリー・ドクター(自宅に往診し患者の相談にのる。
世間話をしたり、患者との人間関係が厚い)として、患者からの信頼は厚く、性格は温厚・良心的で働き者だった。
開業医として約3500人の患者を持っていた。
患者にはひとり暮らしの老年者が多く、シップマンからは多大な信頼を置かれ、フレッドという愛称で親しまれていたという。
皮肉なことに、そのことが、彼が医師として患者を自分次第でどうとでもできる、という全能感をより膨らませることになってしまった。
シップマンは信頼される医師という仮面の裏に、殺人鬼の本性を隠していたのだ。


疑念を抱いた者たち


1998年の3月、リンダ・レイノルズ博士は、シップマンのクリニックの道路の反対側にあるブルック外科医院で働いていた。
シップマンの患者が非常に高い死亡率を見せていたため、不審に思って、南マンチェスター地区の検死官であるジョン・ポラードに会いにいった。
特に老年者で火葬の許可を得る場合、シップマンの死亡診断書と承認が必要であった。
レイノルズ博士は、シップマンが彼の患者を殺しているのではないか、と検死官に言った。
それが不正行為の一部なのか、何らかの悪意や殺意があってのことかどうかは分からなかった。
重要なことは、立件するための証拠を何ら掴んでいない警察に、シップマンが怪しいということを知らせることにあった。


警察の捜査が4月17日にいったん断念されたため、結果的には、死ななくても良かった犠牲者があと3人増えることになってしまった。