シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

戒厳令下チリ潜入記 ①

johnfante2007-08-29

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]


上はミゲル・リティン監督の映画『戒厳令下チリ潜入記』のビデオ。
右写真は、リティン監督


背景


1973年、南米チリにおいてピノチェト将軍による軍事クーデターが起き、民主派のアンジェンデ大統領が虐殺された。
当時31歳のテレビマン・映画人であったミゲル・リティンは、臨時の強制収容所として使われたチリ・スタジアムに連行されて拷問・虐殺されそうになったが、すんでのところで免れ、からくも外国に亡命することができた。
だが、祖国に帰ることを全面的に禁止された、5千人のリストに名前が載ってしまった。


クーデター直後に殺された人は2千から3千。
1年後も投獄されていた人々は7万、死者4万、海外亡命者は100万人に及んだ。
その後、90年にいたるまでの17年間、ピノチェト将軍による軍事独裁政権は続く。
民主化要求運動が高まった84年11月から翌年6月には、全土に戒厳令が布告された。軍政12年目のそんな最悪の時期に、祖国から追放されていたミゲル・リティンをめぐり、ある冒険の計画が進行していた…。


ある冒険の計画


妻のエリーと3人の子供とともに、スペインへ亡命していたミゲル・リティンは、84年秋、パリでイタリア人のプロデューサーに会った。
チリに3つの撮影隊を6週間送り込み、テレビ用と映画用の2つのドキュメンタリーを製作する件の承諾を得た。
チリの人々の生活の現状を自分の目で見て、沈黙を強いられた人々の生の声を、全世界に知らせるのが目的だった。
ミゲル・リティンには、11年間追放されている憂き目から、もう一度祖国の土を踏み、置いてきた母や伯父などの家族に再会したい、という個人的な目論見もあった。
その会見で、イタリア、フランス、オランダのチームを合法的に撮影させ、互いの存在を知らせず、3チームを違法に潜入した彼が指揮するという基本的なプランが固まった。


準備段階


2人の心理学者と1人のメーキャップ係が派遣されて、3週間ほどで奇蹟を達成した。
まず、ミゲル・リティンの髭をそり落とした。髪の毛は後ろに流し、薄くなったところピンセットで抜いて禿げを強調した。
眉毛の端を大きく取り、度付きのメガネを使用したため、激しい頭痛がおき、目つきまで変わってきた。
いつもジーパンにジャンパー姿であったのを、英国ブランドのスーツを着て、オーダーメイドのシャツと鹿のなめし革の靴を身につけた。
新しい身分にはウルグアイの金持ちがふさわしいといことで、訛りと抑揚を練習し、笑い方や身振りも身につけた


パリの16地区の大邸宅で、地下組織から派遣された、エレーナという魅力的な女性と暮らす練習をした。2人は幸せな夫婦の設定であった。
エレーナの仕事は連絡係、助手、お目付け役であった。チリ人であるが亡命者ではなく、身分に問題はない。
その場所でミゲル・リティンは、87キロの体重を10キロ落とすダイエットを強いられた。偽の身分での生活、ウルグアイの首都に関する難しい質問、家に帰るときのバス路線、25年前の級友についてなどを暗記した。
彼の笑い方には特徴があり、変装の責任者は「笑ったら死ぬぞ」と言った。


出発前


妻エリーと3人の子供達には秘密にする予定だったが、出発前、娘のカタリーナが新しい洋服が集まっているのに気付き、打ち明けた。
家族は共犯者になったつもりで歓迎した。
しかし、出発前のマドリッド空港で、聖職者のようなウルグアイ人に変身した父・夫の姿を見たとき、これが危険な本当の冒険であると自覚した。
ミゲル・リティンとエレーナは、ヨーロッパの7つの都市をまわり、新しい身分に慣らした。
偽造パスポート、偽名のイニシャルをいれたシャツ、偽名の名刺、署名も練習した。
エレーナとの性格の不一致により、何度も対立が起き、本物の夫婦であったら離婚する以外になかったが、何とか凌げるだけの結婚生活を演じられるようになった。