シネマの舞台裏2

Yu kaneko(批評家・映像作家)のブログ

ラスベガスをぶっつぶせ ③

johnfante2008-06-06

ラスヴェガス


94年11月。この週末はフォアマン対モーラーのボクシングの試合があり、ラスヴェガスは街中が沸きかえる。
カード・カウンティングにはもってこいの状況になる。
テーブルの前は人でごった返し、ハイ・ローラー(高額賭ける人)の有名人が人目を引くからだ。若者がテーブルかテーブルへ渡り歩いても、気に留めるものはいない。


ケヴィンは1日に2時間練習を続け、特に数字を意識しなくてもカウントできるまでになっていた。
飛行機のシートに座ったケヴィンは、座り心地の悪さを感じた。彼はドンキーボーイ(現金を運ぶ役)だった。100ドル札を1万ドルずつ束ねた札束をビニールに入れて、全部で10万ドル分(約1100万円)をベストや両腿に巻きつけていた。
さらに25万ドル分のチップを手荷物に持っていた。その半分は出資者であるミッキーのものだ。ヴェガスの貸金庫には、さらに25万ドルが待っている。

 
3時間後、飛行機は降下しはじめた。街にネオンの宝石があふれ出し、林立する巨大ホテルに注ぎ込んでいる。ケヴィンには危険も待ち受けていた。
「空の目」と呼ばれるカジノの天井に設置された魚眼レンズがいたるところにあり、警備室ではモニターの前でイカサマ師やカード・カウンターがいないか、顔写真のリストと照合している。
見つかれば「奥の部屋」に連れて行かれ、写真を撮られ、もう来ないという誓約書を書かされるのだ。



小説や映画のモデルになった「MIT Blackjack Team」のドキュメンタリー(ディスカバリーチャンネル


いざ、カジノへ


「これはビジネスだ」とミッキーが空港の到着ゲートでメンバーに言った。
「これから公の場所では互いに知らないもの同士だ。1グループ5人で2交代制のシフト。グループ1は午前6時まで。グループ2は午前6時から11時までミラージュで。休憩時間もずらしてとる。昼間は古参従業員が多いからプレーしない。土曜はボクシングの試合の後、午後11時から午前11時まで、日曜まで2交代制を続ける」


ケヴィンはキアンナ、マイケル、ブライアンとグループ1のスポッターで、ビッグプレイヤー(BP)がマルティネスに決まった。
ミッキーと10人のMITブラックジャック・チームのメンバーは、一流ホテルのスウィートにばらばらに泊まることになった。
ミッキーはケヴィンに「オリバー・チェン」という名前の入ったカリフォルニア州の偽ID証を渡して言った。
「金を持っていて怪しまれない若者は、オリエンタルでなくてならない。従業員はアジア系ならソニーの重役の息子、アラブ系なら石油企業の御曹司と自動的に思うのさ」


ケヴィンは札束をポケットに押し込み、タクシーでミラージュ・ホテルに向かった。
一階は活気に満ちたカジノだった。ブラックジャックのエリアはテーブルが15台。ミニマム・ベットが100ドルで、マキシマムは5000ドル。
MITでテニス選手のマイケルは、ストリッパー風のブロンド美人とおしゃべりしている。彼は酔ったふりをしながら、空のグラスに映るカードをカウンティングしていた。
キアンナは化粧して金持ちの中国人に見えた。片言の英語をしゃべり、アジアのビジネスマンのグループに溶け込んでいた。



大きな戦果


ケヴィンは空いたテーブルに座った。100ドル札20枚をチップと交換した。
波乱のないゲームを続けた。カウントも+3以上にはならない。BPのマルティネスが革パンツに分厚い札束を入れてやってきた。
新しいシューの何回目かで2や3が多く出て、カウントの数字が二桁になった。ケヴィンが腕組みをすると、マルティネスが来た。
「よお、みなさん」とマルティネスは南カリフォルニア訛りで言った。
「あまり良くないな。もう先月のペイチェックの半分をやられたよ」とケヴィンは初めて会ったように言った。
マルティネスはチップを置いた。デック(山)の残りが3分の1でカウントは+15になっていた。
最初のゲームでマルティネスにQが2枚来てスプリットした。そして両方の手に1500ドルずつ賭けた。
2枚の「10」のスプリットは、普通なら愚かなことこの上ない。マルティネスは一方にまた絵札、一方に7が来た。ディーラーの手は6で最初が10、次にQが来てバストした。
ケヴィンは300ドル負けていたが、マルティネスはたった一回で3000ドルを稼ぎ出した。


翌日の午後、ホテルの大きなベッドでケヴィンは目覚めた。
午前10時にプレーをやめて、トイレで記録日誌をつけた。
時間、勝ち負けの記録、ディーラーの癖、マルティネスの勝敗などをつけて、秘書役のキアンナに渡した。結局、ケヴィンは1000ドル少々の負けだったが、BPのマルティネスとフィッシャーはその晩だけで2万ドル勝っていた。
その夜、MGMグランドでケヴィンはゴリラ役を務めた。
NBAのニックスの選手たちと同じテーブルに、マルティネスの腕組みで呼ばれた。カウントは+12だった。10をスプリットしたり、8でダブルにしたりして、ニックスの選手から大喝采を受けた。
マルティネスには誰も見向きもしなかった。ケヴィンは自分では何も考えなかったのに、それから1時間で1万ドル勝つという大戦果を収めた。
1時間後、ケヴィンは特等席でボクシングのフォアマンの試合を見ていた。他のMITメンバーたちもいた。アル・パチーノロバート・デニーロといった有名人たちも近くにいた。
チームは3日間で10万ドル近く稼ぎ出し、半分は出資者に返して1人あたり5000ドルのギャラをもらうことになった。



主人公ケヴィンのモデルとなったJeff Maのインタビュー


二重生活


それから6ヶ月間、ケヴィンの二重生活は続いた。
ボストンの寮に住んでMITの4年生としてほとんどの単位を取り、医大に進むフェリシアという地味なガールフレンドと付き合う。
大きな週末ごとにチームとヴェガスへ行って、シャンパンを開けてストリップに行き、チアリーダーの女と密会をした。


ケヴィンはBPも務めるようになっていた。
オリエンタルでスマートなケヴィンの見た目は、どんなテーブルでも違和感がなく、マルティネスやフィッシャーよりも2倍のチップを賭けることが可能だった。
しかし、痛い教訓もあった。ディーラーの運の強さで負けた後、それを取り返そうとして、カウントが悪いのに大勝負に出て、たった2回で10万ドルをすったのだ。初めてカジノの出入り禁止も食らっていた。
学生ではないフィッシャーとマルティネスは出資者に名を連ねていたが、ミッキーと「その友人たち」によって出資額の上限をつけらており、不満を募らせていた。
ミッキーは70年代後半から90年代前半にかけて活躍したチームのプレイヤーだったが、「恐竜」となって(顔写真リストに乗って)自分は引退していた。


95年10月、フィッシャーとマルティネスはミッキーを追い出し、ケヴィンらと共にチームを引き継いだ。
新しい学生メンバーを向かえ、自分たちが出資者となった旧メンバーの収入は急激に増えた。
フィッシャーとマルティネスはそれぞれ50万ドルほどの資金を持っていた。
2年間で彼らはブラックジャックのエキスパートになった。
1回の遠征に100万ドル近い資金をつぎ込み、チームでその25〜30%の収益を上げることに成功。2年間で数百万ドルの純益をたたき出した。